地図で見る京都殉教地
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① 殉教者26聖人発祥の地
1593年 ペトロ・バブチスタ神父ら
4名のフランシスコ会士が日本に派遣されました。
キリスト教禁令下であったが、豊臣秀吉より
京都の妙満寺跡の広大な土地を与えられた
神父たちは、聖堂と修道院、2つの病院を開設し
布教をはじめた。
200名以上のキリシタンが移り住み、都の人は
ここを「だいうす町」と呼び、キリシタン達は
「諸天使の元后の町」ロス・アンジェルスと呼んで
いた。 -
② 小川牢屋敷
26聖人が捕えられ、収容されたのはこの牢である。
1619年「都の大殉教」の年には、合計63名の
信者が収容されており、
その時、京都生まれの2才の幼児ミゲルとペドロほか
8名が牢内で殉教している。 -
③ 一条戻橋
26聖人は1597年1月3日、
バプチスタ神父以下24名の人々が耳を削がれ、
8台の牛車に3人ずつ乗せられ、市内を引き回
された。
耳をそがれたとき、小崎トメは
「お望みならもっとこの耳を切って
満足のゆくまでキリシタンの血をお流し下さい。」と
役人に言ったといわれています。 -
④ 上京教会跡
一条戻橋のすぐ近くにあります。
1600年イエズス会の聖堂がこの地に建てられ
ました。
この一帯は公家、武士階級の居住地であり
1612年徳川幕府によって閉鎖されるまで
毎年100名を越す受洗者があったと
いわれています。 -
⑤ 南蛮寺跡
1575年、
司祭オルガンチノは高山右近や信徒の協力を得て、
新しい教会建設に着手。
1576年8月15日初ミサが捧げられた。
三階建ての聖堂は南蛮寺と呼ばれ、
一躍都の名所となった。
しかし1587年秀吉の追放令により取り壊された。 -
⑥ 都の大殉教
1619年、
都のキリシタンに対する大弾圧が始まった。
1月10日に36名が捕えられ、
4月、7月には他のキリシタンも捕えられ、
10月6日52名は六条河原で27本の十字架に
縛られ、火が付けられ殉教していった。
司祭も修道者もいない一般信徒であり、
婦人、2才や3才の幼児、胎児まで含まれました。
都の代表的な信者、橋本ジョアン、妻テクラ、
13才の長女カタリナ、12才の次男トマス、
8才の三男フランシスコ、6才の四男ペドロ、
3才の次女ルイサもこの時殉教した。
この都の大殉教、
1622年9月10日長崎の大殉教、
1623年12月4日江戸の大殉教を三大殉教と
呼ぶ。
都の大殉教 中山正美 画
(ヴァチカン美術館 蔵) -
⑦ 「都の聖母」埋蔵の地将軍塚大殉教
ブロンズ製の聖母子像「都の聖母」が
京都を見下ろす将軍塚に1873年埋められた。
1879年堀出され、現在河原町カトリック教会に
保管されている。
プロテスタントの私たちにとって、なぜ「聖母」なのかが不思議である。
平安京、平安の都に神の平安を与えるのは唯一
イエスキリストであるはずです。 -
⑧ 南蛮寺の鐘
妙心寺、春光院の中に「南蛮寺の鐘であろうと思われる鐘が保存されている。
表面に十字架とIHSの文字、
そして3本の釘を組合わせ周囲を炎光模様で囲んだ
イエズス会紋章と1577年号が刻まれている。
第2次大戦中、
軍部より金属を提出するように求められた時、
当時の住職が「この鐘はキリシタンが大切にしていたものだから」と地中に埋めて隠し、
自寺の鐘を差し出し、この鐘を守ったとのエピソードもある。 -
⑨ キリシタンの墓
京都の北野にある椿寺の中にあるキリシタンの墓。
この墓石を削り、「ちょうずばち」として
使っていたのを見つけここに置いたとされる。 -
⑩ 都の牢獄
(東町奉行所跡)現二条城の南にある。